人間臨終考2026~ラスプーチン(後編)

人間臨終考2026、ラスプーチンの後編です。自身の暗殺を予言していたとも言われるラスプーチンの最期とはどのようなものだったのでしょうか。
森達也 2026.05.23
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ラスプーチン(1871頃〜1916、享年45)

Rasputin

ラスプーチン(森達也作)

ラスプーチン(森達也作)

「見てよこれ!」

扉が開くと同時に部屋に入ってきたアレクサンドラ皇后は、パジャマ姿のラスプーチンの膝もとに、手にしていた数冊の週刊誌を投げつけた。

洗脳とレッテル貼り、そして敵の正体は

「何を興奮なさっているのですか」

「あたしやニコライはあなたに洗脳されていると断言しているわ」

「何を今さら。テレビはもっと前から大騒ぎしています」

「だいたいがこの雑誌は、洗脳の意味をわかってないわ。洗脳には物理的暴力や精神的外圧が必要なのよ。それを言うのなら、強制によらず自分の意志で決めたかのように誘導するマインドコントロールという言葉を使うべきよ」

「仰るとおりです」

「でもならば、一般的な信仰や教育だってマインドコントロールと考えることもできるのよ。文化だって広義のマインドコントロールよ。恋愛だってそうかもしれない。つまり常に相対的な概念であるという視点が欠落しているわ」

「まるで誰かが言いたいことを代弁しているようですが、大きくはそのとおりです」

「誰かって誰よ」

「恋愛の場合はこれをリードする第三者的な意図はないですが、まあプロセスとしては、確かにマインドコントロールに近いかもしれませんな」

「答えなさいよ」

「オウム事件以降、洗脳やマインドコントロールという言葉が、彼らは自分たちとは違う存在なのだとの認識を強化する便利な概念になりました。つまりレッテル貼りです。特に敵と見なしたい存在に対して、メディアや為政者は洗脳やマインドコントロールという言葉をとても安易に使います。例えば北朝鮮の国民、オウム真理教や統一教会の信者たちに対して。でもそれを言うなら、熱心なキリスト教信者や仏教徒だって同じです」

「本当にそうね」

「言葉によるステレオタイプ化。特に最近の為政者やメディアは、テロリストという言葉をとても安易に使います。プーチンとゼレンスキー、あるいはネタニヤフとハマスやヒズボラの幹部たちは、互いに相手をテロリストと名指しして攻撃している。なぜならテロという言葉を使った瞬間に、議論や交渉の余地などない絶対的な悪であるというイメージが喚起されるからです。イランをテロ国家と呼んで攻撃するトランプも、ベネズエラの民間の船を空爆してマドゥロ大統領を不当に拘束したとき、麻薬テロという言葉を常套句のように使い、そしてメディアも注釈しないまま報道していました。仮に麻薬運搬船だとしても、彼らの目的はテロではなく金儲けです。テロリズムの本来の意味をはき違えている」

「今度はあなたが誰かを代弁しているみたいね」

「一昔前は違います。例えば鬼畜米英。イエローモンキー。いずれも歴史学者ジョン・ダワーの考察を借りるまでもなく、敵のステレオタイプ化です。かつてはそれが簡単にできた。実際に会った人は少ないですから。人の姿をしながらも中身はぜんぜん違うと本気で思いこまされていた。こうして虐殺や戦争が正当化されます。でもメディアと人権意識が進化してグローバリゼーションが進んだ現在は、こうした単純なレッテル貼りは難しい。だからこそ洗脳やテロリストなどの言葉が、彼らを自分たちとは違う存在にするうえで、とても有効に働きます」

アレクサンドラは肩で息をついてから、「ならば週刊誌やテレビやネットに対して、私たちはどうすればいいのかしら」とつぶやいた。「誰かの代弁問題はもうどうでもいいわ。だってそれは表現の本質でもあるのだから」

「放置するしかないでしょう。あなたは皇后です。黙殺すればいい。それが最善策です」

「それで収まるかしら」

「少なくとも今の段階では、抗議は火に注ぐ油になります」

「ああ、ラスプーチン。あなたはどうしていつもそのように冷静なの」

大げさに身悶えるアレクサンドラに微笑みながら、ラスプーチンは静かにつぶやいた。

「Let it be」

神秘か虚像か、本当の人物像

 もう一度書くが、精力絶倫や特大サイズなどの要素は、普通の女性にとっては決して魅力的な要素ではないと(僕は)思う。しかも、甘いもの好きなのに歯を磨かないから、ラスプーチンは虫歯だらけだったとの説もある。ならばいかに精力家で特大ペニスの持ち主であろうが、女性は毛嫌いすると思うのだけど。

 ただし、ラスプーチンの生活を内偵した秘密警察の捜査員が上司への報告書に、「醜態のかぎりをきわめた淫乱な生活」と記述していたとの資料もある。実際に多くの女性たちに囲まれている写真もある。女好きだったことは確かかもしれない。

 やがて第一次世界大戦が勃発して、ニコライ2世は軍を指揮するために前線に出ることが多くなり、内政を託されたアレクサンドラ皇后は、あらゆることをラスプーチンに報告して相談した。一時は戦況が不利だったこともあり、敵国であるドイツからロマノフ家に嫁いできたアレクサンドラに対する国民の反感は、彼女を洗脳して裏から支配していると思われていたラスプーチンへの憎悪とともに急激に増大した。実のところラスプーチンはニコライ2世に対して、戦争への不参加を説いたり農民への減税を提言したりしていたとの説もあるが、もちろんこれも真偽はわからない。

特にアンシャン・レジーム(旧体制)を体現する宮廷貴族や皇帝の側近たちにとって、皇帝夫妻から寵愛されるラスプーチンは、自分たちの既得権益を脅かす「インチキな詐欺師で狡猾で危険な」存在だった。ならば除去しなくてはならない。それに、国民の憎悪の対象になりつつあるラスプーチンに正義の鉄槌を下せば、同じく国民から疎まれ始めている自分たち貴族や皇族の株が少しは持ち直す可能性もあると考えたのかもしれない。皇帝の姻戚のユスポフ公やドミトリー大公などによって暗殺計画が練られていることは、ラスプーチンの耳にも入っていた。

予言、そして迫る暗殺

身支度を整えたラスプーチンは、『Let it be』を鼻歌で歌いながら、アレクサンドラとともに馬車に乗った。約束の時間をもう1時間も過ぎている。

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