人間臨終考2026~ビン・ラディン~(前編)
ウサマ・ビン・ラディン(生年不詳~2011)
Usama bin Ladin

ハサンはもうすぐ50歳になる。いろいろな意味で大台だ。仕事はタクシーの運転手。でも2001年に同時多発テロが起きてから、アルカイダの拠点があると噂されたイスラマバードでは観光客の数が急激に減少したため、売り上げはそれまでの半分近くに落ち込んだ。家には妻と育ち盛りの三人の子供が待っている。生活はぎりぎりだ。できることなら、もっと稼ぎのよい仕事を見つけたい。でもこの歳になって、新しい仕事など簡単には見つからない。
ちょうどその頃、たまたまタクシーに乗せた男とハサンは親しくなった。ただしハサンとほぼ同年代と思われる男の印象は、最初から良いわけではなかった。一口にすれば胡散臭いのだ。名前だって最初はアブドゥルと名乗ったはずなのに、次に会ったときはウマルになっていた。パキスタンの公用語であるウルドゥー語は普通に喋るけれど、「痛い」とか「参ったなあ」などのアラビア語を時おり口にする。つまり国籍もよくわからない。
アブドゥルなのかウマルなのかよくわからない男は、最初にハサンの車に乗ったとき、運転席のダッシュボードにハサンが入れていたキブラコンパス(メッカの方角を示す方位磁石)を目ざとく見つけて、アッラーフアクバルとつぶやいた。その後はずっと沈黙していたが、目的地に到着する直前に、「自分で自分を敬虔なムスリムだと思うのか」とふいに訊ねてきた。ハンドルを握りながら答えに窮したハサンは、「たぶん」とだけ答えた。
「礼拝は一日五回欠かさないか」
「・・・ムスリムなら当然のことだ」
「アメリカをどう思う?」
「ムスリムの立場からは正当化できない。誰だってそう思うだろう」
アブドゥルなのかウマルなのかよくわからない男は、タクシーを降りるときにハサンの携帯の番号を訊いた。それ自体は珍しいことではない。ハサンのような個人タクシーの運転手にとって、多くの顧客を抱えることは重要だ。
それから平均すれば月に二回から三回ほど、アブドゥルなのかウマルなのかよくわからない男にハサンは呼び出された。乗る距離はいつも短い。でも料金はいつも、規定の倍近くはくれる。こうして二人は少しずつ親しくなった。
数ヵ月が過ぎた頃、アブドゥルなのかウマルなのかいまだによくわからない男は、「私の仕事は何だと思う?」と後部座席から訊いた。
「見当もつきません」
「ムスリムの教えを守るために戦うことだ」
ハサンはうなずいた。この答えは何となく予期していた。後部座席に座ったアブドゥルなのかウマルなのかよくわからない男は、携帯電話でいつも誰かと喋りながら、ジハードやムジャヒディンという言葉を頻繁に口にしていた。それも必ず小声で。「米軍」とか「武器の調達」などの言葉も聞こえたことがある。察して当たり前だ。そしてアブドゥルなのかウマルなのかよくわからない男も、(今にして思えば)気づかれるように喋っていたような気配もある。
「その男はアルカイダよ」
住み込みで運転手の仕事をしないかと言われたのは、初めて出会ってから3ヵ月が過ぎる頃だった。条件は破格だ。準備金として1万ルピーを渡すという。ハサンにとっては一週間分の稼ぎに相当する。長男はもうすぐ高校を卒業する。親に似ず成績は優秀だ。できることなら大学に進学させたい。ハサンは仕事を引き受けた。
ハサンが経緯を説明し終える前に、妻のアーイシャは憤然とした口調で言った。
「まさか引き受けたわけじゃないわよね」
「引き受けたよ」
「どうして勝手に決めるのよ」
「断る理由があるのか」
「その男はアルカイダよ」
「わかってる」
「わかってて何で引き受けるのよ」
「彼らが言っていることは間違っていない」
「言っていることは間違っていなくても、やっていることは間違っているのよ。あんただって前にそう言っていたじゃない。危険な目にあったらどうするのよ」
言いながらアーイシャは泣き出した。もう40代半ばだというのに、いつまでも少女のようなところがある。今年小学校に入ったばかりの次女のルクサーナが、扉の隙間から怯えたような表情で覗いている。ハサンは言った。
「頼まれた仕事は住み込みの運転手だ。カラシニコフを持つわけでもないし、爆薬を身体に巻き付けられるわけでもない。少しまとまった金が入れば、ファイサルの学費も出せるし、この部屋のカーペットだって換えることができる。おまえだってもう何年も新しい服を買っていないじゃないか。ルクサーナの靴は穴が開いたままだ。とにかく安心しておくれ。約束するよ。おまえたちを置いて死ぬようなことは決してない」
立ち入れない三階、彼がいる
イスラマバードから車で二時間ほどの距離にあるアボタバードの邸宅で、ハサンの住み込み運転手の生活は始まった。普通の家屋の数倍の大きさがある邸宅はコンクリート製の三階建てで、広い敷地は鉄条網を取り付けた5メートルほどの壁に周囲を包囲されており、入り口には二重の扉が設置されていた。
邸内にはハサンの他に、やはり住み込みの男が二人いた。二人は銃を常に携帯し、一階スペースを居住空間として自由に使っていた。つまり護衛役だ。でも実戦に馴れているようには見えなかった。ハサンにはキッチン横の小部屋が与えられた。
二階では世代の違う三人の女が、それぞれの子供たちと暮らしていた。一階で生活する三人の男たちは、二階までは出入りできる。ただし三階に立ち入ることが許されているのは、二階で生活する女や子供たちに限られている。誰かにはっきりと明言されたわけではないけれど、三階には容易に立ち入れない雰囲気があった。そしてその理由は、ハサンにもわかっていた。
彼がいるからだ。
裏庭には焼却炉が置かれ、ゴミは必ずここで焼いていた。電話線は引き込まれていない。これほどの邸宅なのに、エアコンはまったくない。キッチンはあるけれど冷蔵庫がない。つまり電化製品がほとんどない。
車庫には相当に老朽化したベンツが置かれていた。ハサンにとっては大事な仕事道具だ。でも特定の誰かを乗せてどこかに出かけるということはほとんどなく、時折頼まれる日用品の買い物や郵便物の投函などが主な仕事だった。
アブドゥルなのかウマルなのかよくわからない男は、週に一二度ほど訪ねてきて、ハサンに目で合図しながら早足で三階へと上がり、必ず一時間ほどで降りてきた。三階で何をしているのかはわからない。
報酬は週の終わりに、二人の男のうちの一人から現金で手渡された。金額としてはタクシー運転手時代の数倍だ。その金を手にしてハサンは、イスラマラマバードの自宅に一泊だけ戻る。子供たちは無邪気にまつわりついてきた。アーイシャは相変わらず不安げな表情ではあったけれど、数年ぶりに新しい服も買えたようだし、擦り切れていた居間のカーペットも新しいものに替わっていた。だから(仕事の退屈さはともかくとして)ハサンは満足だった。できることなら三人の子供たちが学校を卒業するまでは、この仕事を続けたいと思っていた。