犯罪率は低い でも事件のニュースが多すぎる ――僕たちとメディアはどんな日本を作ってきたのか
最近は地上波テレビのニュースをあまり観ない。
理由は単純だ。誰かが誰かに刺されたとか殺したとか騙されたとか遺体を遺棄したとか、いわゆる犯罪報道や事件報道などに対する自分の関心が、地上波テレビの報道量と吊り合わないのだ。
そもそも日本の犯罪報道の割合の高さは世界でも突出している。地上波の夕方から夜にかけての報道番組では、純粋な犯罪報道だけで10%〜20%という数値になる。ここに事故や不祥事などを含めて広義の事件報道まで広げると、30%〜40%を占める。ワイドショーなどの情報番組ではその傾向がさらに顕著で、大きな(あるいは話題となっている)事件が発生した際には、番組全体の半分以上の時間が費やされることも珍しくない。
これに対して欧米(特に欧州の公共放送や米国のネットワークニュース)では、事件報道の割合は10%程度、あるいはそれ以下に抑えられる傾向があり、代わって政治や経済、外交や公共政策に関する報道が大きな比重を占める。
犯罪報道が多くなる背景とは
日本の犯罪報道の割合が高くなる理由としては、警察発表をそのままニュースにできる記者クラブ制度が浸透していることと、メディア全般に政治報道(特に現政権を批判するニュアンス)を回避する傾向が強いことなどが挙げられるが、最大の要因は、国民の多くが犯罪報道に強い関心を持つからだ。つまり視聴率。
最近では京都男児失踪(現段階では遺棄)事件が典型だ。あまり地上波ニュースは観ないけれど、この事件については嫌でも目や耳に入ってきたし、報道される量にずっと違和感があった。男児が行方不明になった3月23日以降は、アメリカとイランがパキスタンで和平協議を開催したが合意に至らず、トランプがホルムズ海峡を海上封鎖すると宣言するなど大きなニュースが続いた時期に重なるが、その詳細よりも男児失踪事件のほうが優先されていたと感じている。

4月17日の新聞のラテ欄。京都府南丹市の事件について多くの民放ニュースやワイドショーが伝えている
日本国内で「行方不明者届」が出される9歳以下の子供の数は年間でほぼ1000人。一日当たり3人弱。そのほとんどは一時的に迷子になったり親権争いで一方の親が連れて行ったりするケースで、実際に行方不明のままという事例は年間に数件あるかないかだ。でも京都の事件の場合は、父親が届を出した段階から、報道の規模は例外的に大きかった。
ここからは推測だけど、警察から何らかのリークがあって、事件性をメディアの側が早い段階で感知していた可能性はある。でもまだ公にはできない。だから大騒ぎになる日のための伏線として報道量が大きくなる。でも仮にそうだとしても、現在の報道が視聴率に反映されなければ持続はしない。だから視聴者の側も、父親や母親がいっさい前面に出てこないことなどに何らかの不自然さ(事件の予兆)を感じ取っていたということになるのかもしれない。
テレビ番組の視聴率は、放送翌日に視聴率調査会社(ビデオリサーチ)から速報値が配信され、報道やバラエティ番組などでは1分単位の推移データ(折れ線グラフ)も確認できる。業界で「毎分」と呼称されるこのグラフは、特に報道番組やワイドショーなどの場合、どのニュースに視聴者が関心を示したが明確にわかる。

届いたばかりの「毎分」を壁に貼った会議室で、プロデューサーやチーフディレクターはその日のニュースのプライオリティを考える。
「やっぱり大谷は強いなあ」「ならば今日は特集でゆきましょう」「京都も数字くるねえ」「了解。今日は現場から中継します」「ミャンマーの反政府デモの特集、おまえがごり押ししたけれどやっぱりだめじゃないか」「パート2はやめましょうか」
……まあこんな感じ。つまり(その話題の)報道が長く続くということは、その話題に視聴者が大きな関心を持っているということを示している。
「見えざる手」に任せていいのか
補足するけれどこれは間違いではない。ニュースの定義はいくつかあるけれど、「世の多くの人が知りたがる」ことは重要な要素だ。需要があるから供給がある。つまり市場原理。アダム・スミス言うところの「神の見えざる手」だ。でも市場原理に任せるばかりでいいのか。メディアの重要な縦軸であるジャーナリスムは、そこにどのように介在すべきなのか。