人間臨終考2026~ラスプーチン(前編)

今回の臨終考は帝政ロシアを揺るがし、暗殺でも死ななかったとされるラスプーチンについてです。2回にわたってお届けする前編です。
森達也 2026.05.14
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ラスプーチン(1871頃〜1916、享年45)

Rasputin

ラスプーチン(森達也作)

ラスプーチン(森達也作)

目を覚ましたラスプーチンは、大きな欠伸をしてから壁の時計を見て、どうやら自分が寝過ごしたことに気がついた。午前中に宮中で、皇帝ニコライ2世に謁見する約束をしていたのだ。どう考えても間に合わない。皇帝を30分ほど待たせることになる。

まあいいさ。たいしたことはない。なるようになるだけだ。

ラスプーチンはもう一度欠伸をしてから、のそのそとベッドから起き上がった。たっぷり寝た。今日は自分にとって、おそらくは最後の1日になるはずだ。睡眠不足のまま死にたくない。 

農村から始まった「Let it be」

ニコライ2世の祖父である皇帝アレクサンドル2世が暗殺される10年前の1871年、シベリアのトボリスク県ポクロフスコエ村に、グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは生まれている。家は貧農だ。教育もほとんど受けていない。農奴解放令は既に発布されていたけれど、改革はまったく進まず、ロマノフ朝支配に対する人々の不満が日毎に飽和しつつある時代だった。

20歳で同じ村の娘と結婚したラスプーチンは、その日もいつものように畑仕事から帰ってきた。夕食は靴底のように硬い黒パンと野菜の切れ端が浮いたスープと茹でたジャガイモがひとつ。もう何ヵ月も同じメニューだ。神に祈りを捧げてスプーンを手にしながら、ラスプーチンは卓に座る妻と父と母に、「明日から自分は巡礼に出なければならない」と唐突に言った。その表情は真剣だ。

「明日から?」

目を丸くして妻は言った。

「そうだ。明日からだ」

「畑はどうするの」

「それどころじゃない」

硬い黒パンを手にしながら妻は泣き始めた。母は唖然としながら訊いた。

「何で急にそんなことになるのよ」

「今日畑仕事をしているとき、聖なるマリヤさまから啓示を受けたのです」

「何と。マリヤさまが御身を現されたのか」と父が言った。「何か仰ったのか」

ラスプーチンは大きくうなずいた。

「マリヤさまは私の耳もとで、とても賢いお言葉をささやかれました」

「だから何と仰ったのだ」

「Let it be」

「マジか」

「冗談です。でも啓示があったことは確かです」

とにかくラスプーチンは家を出た。マリヤからの啓示を理由に村から出奔した。それからどこでどうしていたのか、これを裏づける資料はほとんどない。

放浪と空白の10年

村を出てからおよそ10年が過ぎた1904年、33歳になったラスプーチンはサンクトペテルブルクにいた。当時のロシアでは大都会だ。黒い僧服をまとったラスプーチンは、誰もが一度見たら忘れられない異相も相まって、不思議な力で病気を治療する祈祷師として、巷では大評判になっていた。

「あなたは何でもわかるのよね」

ある日、ラスプーチンの家を訪ねてきた女性が言った。明らかに高貴な家の奥方のようだ。御付きの者も何人か従えている。

「何でも、ではありません。奥さま。ある程度です」

言いながらラスプーチンは、懐から取り出したスプーンを瞬時に曲げた。さらに今度はフォークの柄を、ほとんど手を使わずにねじってみせた。

「おお神さま」

「私は神ではありません。祈祷師です」

「何でもいいわ。今すぐ一緒に来てちょうだい。自己紹介がまだだったわね。私の名前はアナスタシヤよ」

その名前を聞いた瞬間、太い眉の下で落ちくぼんだラスプーチンの2つの目がギラリと光る。

「ニコライ・ニコラエヴィチ大公の奥方の?」

「よくご存じね。早く行きましょう」

「どこへ行くのですか」

「わかっているくせに質問するのね。あたしの家よ」

 馬車は表通りで待っていた。乗り込んでしばらく走ってから、隣に座るアナスタシヤにラスプーチンは言った。

「……今朝はかなりお忙しかったようですな」

「それもわかるの?」

「それくらいならわかります。朝食を食べそこなっていますね。家では犬を飼ってらっしゃる。趣味は陶器と絵画の収集ですな」

 そこまで言ってからラスプーチンは、ちょっと待ってくださいというように右手の指を額に当てた。

「……なるほど。奥さまは今、とても深くお悩みのようですな」

「まあ。驚いたわ。そのとおりよ。だから評判が高いあなたのところに来たのよ」

「その選択は正しいです」

重々しくそう言ってから、ラスプーチンは馬車の椅子にゆったりと座り直す。上気した表情でアナスタシヤはラスプーチンを見つめている。

ここまでのラスプーチンの手法は、自称霊能者や多くの占い師が、相談者の雰囲気や様子、あるいはカウンセリングが始まる前の雑談などから得た情報を利用する「コールド・リーディング」だ。アナスタシヤのように表情に感情が表れやすい人は、まさしくこの手法の餌食になりやすい。もちろんスプーン曲げやフォークねじりもトリックだ。これほどに手早くできるはずがない。専用のスプーンやフォークは手品グッズ店でいくらでも購入できる。

占いや祈祷の手法にはこれ以外にも、事前に得ていた相談者の情報を今気づいたかのように口にする「ホット・リーディング」や、誰にでも当てはまることをもっともらしく言いながら相談者の信用を引き出す話法である「ストック・スピール」などがある。つまりここまでのラスプーチンは、「コールド・リーディング」と「ストック・スピール」を、併せ技で使ったわけだ。

頭角を現したラスプーチン、一体何者か

アナスタシヤの屋敷で、夫で皇族のニコライ・ニコラエヴィチ大公に引き会わせられたラスプーチンは、週刊誌や女性誌などでチェックしていた皇室情報を織り交ぜながら(つまり「ホット・リーディング」の技術も駆使しながら)、夫妻の悩みを解決した。この人の能力は間違いないと確信したアナスタシヤは、自分の親戚であるアレクサンドラ皇后に、ラスプーチンを紹介した。

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