人間臨終考2026~バラバ(後編)
バラバ(生没年不詳)
Barabbas

バラバ=森達也作
群衆
「……おそろしい」
後ろ手錠を解かれたばかりのバラバは、手首をさすりながら、ぼそりとつぶやいた。小声で「ジーザス・クライスト」とか「オーマイーゴッド」などとつぶやいたかもしれない。
「何がおそろしいのだ。おまえは罪を赦された。喜ぶべきではないか」
祭司長が言った。
「赦されてなんかいない。俺はこの集団がおそろしい。どうしてこれほどに残虐になれるのだ。この人は処刑されるべきではない。よく考えればわかるはずだ。なぜ考えようとしないのだ」
「情緒的な参加による大衆の共感だよ。さっき自分で解説したじゃないか」
イエスの処刑が決まったことで、祭司長や律法学者たちはにこにことえびす顔だ。その場をそっと離れたピラトは、洗面所で手を洗う。ハンドソープをたっぷりと手にのせて、何度も何度も洗い続ける。額には脂汗。顔面は蒼白だ。「私じゃない。私じゃない」と小声でつぶやきながら、ピラトは手を洗い続ける。
「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
マタイによる福音書27章23〜24節 日本聖書協会『新約聖書 新共同訳』
そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
ヨハネによる福音書19章12〜17節 日本聖書協会『新約聖書 新共同訳』
連鎖
福音書や使徒言行録などで構成される『新約聖書』が編纂された時期は、ローマ帝国がキリスト教を公認しつつある時代と重複する。だからこそ聖書の記述は、イエスの処刑を積極的に行ったのはユダヤ人であり、ピラトやその妻であるローマ人は消極的だったのだと印象操作を行ったとの説もある。
いずれにせよイエスを殺害したユダヤ人たちは、当然ながらその後の西洋社会では忌み嫌われる存在になり(実のところはイエスもユダヤ人であり、ユダヤ教徒なのだけれど)、差別や迫害の時代は、つい最近まで続いていた。でも第二次世界大戦終了後、ホロコーストの惨劇を知った世界は驚愕し、差別や迫害に加担していた西洋社会は罪の意識に過剰に萎縮した。
こうしてホロコーストにおける膨大な数の被害者遺族となったユダヤ人は、約束の地に強引にイスラエルを建国し、被害者意識を反転させながらパレスチナ人を迫害し、幾度もの中東戦争を引き起こした。危機意識の塊となりながら、同じ神を信仰するイスラム教徒の国を敵視し、これに対するイスラム側の反発が9・11を引き起こし、アメリカは報復としてイラクに強引に侵攻してフセイン政権を瓦解させ、その結果として「IS(イスラム国)」が誕生し、世界中にテロの恐怖を拡散した。
すべてはイエスの処刑から連鎖している。終わっていない。特にネタニヤフが首相となって以降のイスラエルは、シオニズム右派が政権内で影響力を増大させたこともあって、反転した被害者意識をより先鋭化し、ガザ地区やヨルダン川西岸地区に暮らすパレスチナ人たちを迫害し、レバノンのシーア派武装組織ヒズボラを攻撃し、その後ろ盾であるイランを無力化させることを達成するためには多くの市民たちが犠牲になっても構わない、という姿勢を顕示している。
イエスの最期を描く『パッション』を監督したメル・ギブソンは、2006年に飲酒運転で現行犯逮捕されたとき、警官に対して“Jews are responsible for all the wars in the world”「世界の戦争は全部ユダヤ人のせいだ」などの罵声を浴びせたとして、激しく批判された。差別発言は当然ながら許されない。でもギブソンの発言にも一分の理はあると僕は思う。ただしユダヤ人やイスラエルだけにresponsiblity(責任)があると断じるのなら、連鎖はまたもや反転しながら続くばかりだ。なぜイスラエルはこれほどに「やりたい放題」の国家になってしまったのか。第二次世界大戦以降にナチスのホロコーストを知った(キリスト教文化圏の)西側世界は、自分たちもユダヤ人を差別し迫害してきたことに強い負い目を持ち、ナチスを悪の特異点にすると同時に自分たちは委縮し、イスラエルの(特にパレスチナの民に対する)蛮行に対して見て見ないふりを続けてきたからだ。
イエスの復活を祝う復活祭のミサにおいて、多くの教会で信者たちは、ピラト役の神父に「ナザレのイエスとバラバのどちらを救うのか」と問われ、「バラバを!」と叫ぶ受難劇を行う。過ちをもう一回自分たちで再現する。
とても大切なこと。「イエスを殺せ」と叫んだのは当時のユダヤ人たちであるけれど、それは自分たちすべての姿でもあるのだと、すべてのキリスト教徒は何度も確認する。胸に刻む。過ちから目を逸らさない。だから忘れない。僕たちは今も、多くのイエスを殺し続けているのかもしれないのだ。