人間臨終考2026 ~ガガーリン 【前編】
ガガーリン(1934〜1968、享年34)
Gagarin

森達也作(AIのアシストも使って作成しました)
濃い霧が立ちこめていた。前も後ろもわからない。でもゲルマン・チトフは歩き続けた。ただし自分が今、どこに向かっているのかわからない。どこから来たのかもわからない。そもそもいつから歩き始めているのか、その記憶すらない。軽いパニックになったとしても不思議ではない。でもチトフは冷静だった。想定外の状況が起きたときの対処については、うんざりするほどに訓練を繰り返してきた。今はとにかく前に歩き続けるだけだ。いずれどこかに行き着くはずだ。
数時間が過ぎたとき、チトフはゆっくりと立ち止まった。数十メートル離れた前方で人の形をした何かが、微かに動いたような気がしたのだ。
立ち止まったままチトフは、自分は今、どうするべきかを考えた。いくつかの状況を想定した。人の形をした何かは、ゆっくりとこちらに近づいてくる。巨大な頭部。ぎくしゃくとした動き。まるでロボットだ。異星人のようにも見える。でもどうやら危害を加えてくる気配は薄い。そう判断したチトフは、同じ姿勢のまま待ち続けた。
チトフのすぐ目の前で、その何かは立ち止まった。ロボットでもなければ異星人でもない。メタリックシルバーに輝く胸部には、長方形の赤地の左上に鎌と槌、そして小さな五芒星が黄色のラインで描かれた国旗が、ぴたりと貼り付いている。旧ソ連のコスモノート(宇宙飛行士)だ。巨大なヘルメットに取り付けられたゴーグルの奥で、にこにこと人懐っこそうな顔が笑っている。
「ユーリ・ガガーリン」
チトフは言った。微笑みながら男はうなずいた。
「ゲルマン、久しぶりだね」
「忘れるわけがない。……君がいるということは、ここはやはり天国なのか」
「うーん。地獄かもしれないよ」
そう言ってからガガーリンは、白い上下の歯を見せる。
「それにしても」
チトフは言う。
「何で君は死んだ後も宇宙服を着ているんだ」
チトフのこの質問には、おまえはそれほどに宇宙飛行士に未練があるのかとの揶揄が含められていた。微かな悪意でもある。でもガガーリンの笑顔は変わらない。
「君にはそう見えるのか。実際に僕が宇宙服を着ているわけじゃない。君の僕についてのイメージが宇宙服なんだよ。ここではそれが形になるんだ」
「……ならば宇宙服にこだわっているのは、私のほうということになるわけか」
そうつぶやいてからチトフは、自分の袖口にちらりと視線を送る。カーキ色のゴワゴワとした素材は、確かめるまでもなく軍服だ。襟元にはクレムリンから授与された幾つもの勲章。もしもガガーリンの言っていることが事実なら、この軍服や勲章は、チトフ自身が抱くチトフ自身へのイメージということになる。
……それならばガガーリンの目に映る私は、今何を着ているのだろう。そしてその襟元に勲章は付いているのだろうか。
チトフはもう一度顔を上げる。目の前にはガガーリンの変わらぬ笑顔。いつもこうだ。こいつにはやりこめられる。しかも本人には「やりこめよう」との意識が一ミリもない。だから余計に腹が立つ。
選ばれし2人のライバル
1934年3月9日、モスクワ近郊のモレンスクという町で、ユーリ・ガガーリンは4人兄弟の次男として生まれた。両親は2人ともコルホーズ(集団農場)で働く労働者だから、旧ソ連としては典型的な庶民階級ということになる。
優秀な成績で工業高校を卒業したガガーリンは、周囲の勧めで空軍士官学校へと進む。同時期にゲルマン・チトフも、同じ士官学校に在籍していた。
2人がパイロットとして訓練を始めた1950年代後半は、アメリカとソ連における宇宙開発競争が本格的に始まった時代でもある。つまり冷戦期だ。核ミサイルなど軍事技術への応用が可能であることに加え、愛国心や団結心を鼓舞しやすい宇宙開発は、第二次世界大戦後の世界におけるヘゲモニーを争うアメリカとソ連にとって格好のフィールドとなった。そんな時代状況を背景に、卓抜した操縦技術で優秀な成績を収めたチトフとガガーリンは、人類初の宇宙飛行士候補に選抜される。
つまりライバルだ。
通常の航空戦力ではアメリカに劣っていたソ連は、アメリカ本土を直接攻撃できるICBM(大陸間弾道ミサイル)の開発を重要視し、宇宙開発計画を国家の最優先事業として位置づけた。もちろん共産国家の常として、計画の全貌は国家機密だ。研究拠点の場所はほとんど明かされず、セルゲイ・コロリョフなどロケットの基本設計者や科学者たちに関しては、ソ連崩壊までその名前すら公開されなかった。
1957年10月4日、ソ連はスプートニク1号を搭載したR-7型ロケットを打ち上げ、世界で初めて人工衛星を地球周回軌道に送り込むことに成功した。ソ連にとっては国威発揚の絶好の好機であり、アメリカの国民の多くは先を越されたことに強い衝撃を受け、国家防衛教育法など多くの政策が変更を余儀なくされた。いわゆるスプートニク・ショックだ。
「よく覚えているよ」
ガガーリンは言った。
「あの日は夕方から祝杯のウオッカを飲み続けた。あんなに飲んだのは生涯初めてだ」
「そもそも君は当時、あまり飲まなかった」
チトフは言った。「当時」という言葉にアクセントを置いて。その理由は後でわかる。
「私は飲んだ。士官学校時代からほぼ毎日、訓練後には酔っぱらっていた。そんなところも教官たちからはマイナスの評価を受けていたのだろうな」
「そうかな。別に打ち上げ後のコックピット内で飲むわけじゃない。評価には関係ないよ」
「ありがとう。君はいつも優等生だね」