人間臨終考2026 ~ノーベル
ノーベル(1833〜1896、享年63)
Nobel

アルフレッド・ノーベル=ノーベル財団のHPから
「アルフレッド・ノーベルさん」
名前を呼ばれてノーベルは待合室の長椅子からおずおずと立ち上がった。いつのまにか周囲には、深い霧が立ち込めている。その霧の中からすぐ目の前に、巨大な牛の頭がぬっと現れた。
「アルフレッド・ノーベルさん?」
腰に手を当ててノーベルの顔を覗き込むようにしながら、牛の頭がもう一度言った。
「は、はい」
「あなたね。すぐに返事をしなくちゃだめよ」
「ああ、はい、すいません」
「じゃあ付いてきて」
牛の頭の性別は女性らしい。ぴっちりとしたワンピースの下は見事な曲線だ。いわゆるボディコン。でも頭は巨大な牛。バブル期の日本のディスコで、お立ち台で極彩色の扇子を振りながら踊っていた女性のイメージに近い。でもやっぱり頭は巨大な牛。バランスが悪い。後ろを歩きながらノーベルは、転ばないだろうかと心配になった。
霧はますます濃くなってきた。しばらくボディコンの牛の頭のあとに続いて歩いてから、ノーベルは「あの、……質問いいですか?」と訊ねる。立ち止まった牛の頭が振り返った。
「何かしら」
「あなたはギリシャ神話に出てくるミノタウロスでしょうか」
「違うわよ。私は牛頭」
あっさりと即答してから牛頭は、進行方向を右手の人差し指で指し示した。
「そしてあれが馬頭」
牛頭がそう言うと同時に、スーツを着た馬の頭が、霧の中から現れた。重そうな書類の束を両腕に抱えた馬の頭は、自分を見つめるふたりの視線に気がついて、少し首をかしげながら白くて大きな歯を剥きだした。微笑のつもりらしい。
「おはようございますノーベルさん。今日はよろしくお願いします。牛頭、早いね」
「あなたもね。気合いが入っているようね」
「これほどに本格的な法廷は久しぶりだからね」
言いながら馬頭は再び歩き出す。すぐ横に大きな扉がある。口の端から牙をのぞかせた半裸の大男が、馬頭と牛頭が胸に下げていたIDをチェックしてから扉を開けた。大男の頭には、よく見ると短い角が2本生えている。早く行けというように牛頭がノーベルの背中を静かに押した。
扉の中は広々とした天井の高い部屋だった。立ち止まったノーベルの正面には巨大な雛壇が設置されていて、角や牙を持つ異形の男や女たちが並んでいる。その中央には、中国の道服を着て不思議な形の冠をかぶった髭面の大男が、どっしりと座りながらノーベルを睨んでいる。
「わしの名前は知っておるな」
髭面の大男が言った。バスドラムと割れがねを足したような声だ。ノーベルは目を瞬いた。
「いえ。……前にお会いしていますでしょうか」
「知らんのか」
「はい」
「閻魔大王だ」
「はあ」
「わからんのか」
「はい」
閻魔大王はノーベルの横に立つ牛頭に、ゆっくりと視線を送る。
「なぜこの男はここにいる」
「それは、……刑事被告人だからです」
「この男の宗教は何だ」
「えーと。国籍はスウェーデンだから、おそらくキリスト教だと思われます」
言いながら牛頭は、ちらちらとノーベルに視線を送る。ノーベルがうなずいた。
「プロテスタントです」
「ならば被告人に訊く。なぜここに来た?」
「私に訊かれても困ります。気がついたらここにいました」
閻魔大王の法廷と、AIが読み上げる起訴状
これ以上訊いても無駄だと思ったのか、閻魔大王は突然、「まずは人定質問だ」と木槌を叩く。
「被告人の名前はアルフレッド・ノーベル。1833年にスウェーデンのストックホルムにて、父イマニュエルと母アンドリエッテの子供として生誕した。1896年12月10日に死亡。享年は63。これに間違いはないか」
「間違いありません。……というか、これは裁判なのですか。なぜ私は裁判にかけられているのですか」
「今にわかる。では検察官は起訴状を朗読しなさい」
馬頭が椅子から立ち上がった。口の端からニンジンの葉っぱがのぞいている。
「えー。少し風邪気味でして、もし聞き苦しかったら申し訳ありません」
「いいから早く読みなさい」
「アルフレッドが生誕したこの時点において、父イマニュエルは建築家で発明家でありましたが、結局は破産を余儀なくされ、1837年にロシアのサンクトペテルブルグに単身で渡ります。ストックホルムに残された母と子どもたちは極貧の生活を送りながら、支え合って生きてゆきます。やがてアルフレッドたち兄弟は、ロシア海軍向けの機雷製造事業に成功した父親に引き取られる形でサンクトペテルブルグに移住します。ちょうどこの時期……」
「ちょっと待て。ストップ」
気怠そうに頬肘をついて聞いていた閻魔大王が、たまりかねたように言った。
「あのさ、それはウィキペディアのコピペ?」
「いいえ。失礼な。文体が明らかに違うと思いますが」
「いずれにしても、その調子で読みあげられたら1時間以上かかるよ」
「ブヒヒヒヒン」
「ブヒヒヒヒン?」
「気にしないでください。ため息です。ではここからは、AIに要約させた起訴状に切り替えます」
「最初からそうしろよ」
「父の仕事を引き継いだ被告人は、自らの利益のためにダイナマイトを発明して、その後の戦争の規模と形態を大きく変えました。被告人がダイナマイトを発明さえしなければ、多くの人が死なずに済んだことは確かです」
そこまで言ってから馬頭は、「大量破壊兵器を人類に提供したことの罪はあまりにも重く、これを償わせるためには、熱い鉄板の上で身体を鋸引きにする黒縄地獄で1000年苦しみ続ける刑罰を、検察官は裁判所に求めます」と高らかに宣言した。
「ちょ、ちょっと待ってください。1000年って……」
「被告人には黙秘権があります」
「いや、1000年ってなんですかそれ。ありえないですよ」
「うるさい黙れ」
閻魔大王が一喝した。でもノーベルも負けてはいない。
「何で黙らなければならないのですか」
「黙秘権があるからだ」
「何だそれ。黙秘権の意味をわかっているのですか」
「時間がないので冒頭陳述やら何やらは省きます」
「あんまりだ。神も仏もないものか」
「みんなここにいます。弁護人、何か言うことはありますか」
告げられた皮肉な処方箋
立ちあがった牛頭は、ブランド品らしい(たぶんエルメスだ)バッグから、爪にラメ入りのファウンデーションを施した細い指先で、小さなリモコンを取り出した。
「重要な証拠として今から、被告人の映像をスクリーンで上映します。被告人に異議はありますか?」
「私の映像?」
「そうです」
「いつ撮ったのですか」
「あなたが死ぬ少し前です」
「異議があります。これは明らかに隠し撮りであり、私のプライバシー……」
「異議は認めません」
「異議はないかと訊いてきたのはそっちですよ」
「スイッチオン」
牛頭の合図と同時に、雛壇の上のスクリーンに、病院の一室の映像が映写された。
「先生、何かの冗談でしょうか」
診察室の寝台に横になっていたアルフレッド・ノーベルは、言いながら上体を起こす。同時にカメラが切り替わる。横にいるのは白衣の担当医だ。
「いえ、冗談ではありません。ノーベルさん、あなたの心臓はきわめて状態が良くない。狭心症を起こす可能性があります。ニトログリセリンを処方しますから、もし具合が悪くなったらすぐに服用してください」
「ニトログリセリンを服用? とんでもない。いいですか。ニトログリセリンをベースにしてダイナマイトを発明したのは私です。爆破の事故で弟は死にました。戦争でも多くの人を殺しています。それを発明した私が、狭心症の予防のためにニトログリセリンを服用する。これが悪い冗談じゃなくて何ですか」
映像はここで終わった。牛頭がノーベルに質問する。
「結果としてニトロの服用を拒否したことで、ご自身の死期が早まったと思いますか」
「なんとも言えません」
「あなたが死ぬのはこの翌年です」
「そうですね」
「後悔はしていますか」
「……それはないです」
「つまりあなたは、ニトログリセリンを主成分とするダイナマイトを自分が発明したことに、実は生涯を通じて良心の呵責を感じていた。そして最後は自らの命で償った。そういうことになりますね?」
「まあ、良心の呵責を感じていたかと訊かれれば、確かにその要素もあったような……」
「死の商人」の苦悩と、平和活動家の恋人
うなずきながら牛頭は、再びリモコンを手にした。
「弁護側はさらに、証人の映像も用意しています。被告人のかつての恋人で、被告人の生涯に、とても大きな影響力を与えた女性です」
牛頭の説明を聞いたノーベルの顔色が変わる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
同時に上映が始まった。ただしスクリーンは真っ暗だ。静かにBGMが聞こえてくる。スメタナの『モルダウ(我が祖国)』だ。やがてゆっくりとテロップが浮かび上がる。
父イマニュエルの工場は、ロシア軍のために多くの兵器を製造して納品していた。つまり軍需工場だ。工場の敷地を遊び場にしていたアルフレッドは、機械の構造や火薬についての基礎知識をイマニュエルから教わった。やがて「ノーベル父子会社」は大企業へと成長し、1853年に起きたクリミア戦争では、アルフレッドが発明した新型機雷が使用されて、大きな戦果を挙げている。
同時にこの時期にアルフレッドは、世界最初のニトログリセリン製造会社を設立して、ノーベル式油状火薬の本格的な事業化に取り組んでいた。
しかしニトログリセリンは、工事現場や輸送中に爆発事故を頻繁に起こし、会社は大きな危機を迎えた。アルフレッドは不眠不休で改良実験に取り組み、そしてついに、珪藻土にニトログリセリンを浸みこませた新しい火薬「ダイナマイト」の合成に成功した。
ナレーションが一瞬だけ途切れたとき、閻魔大王がたまりかねたように言った。
「長すぎる。証人が出てこないじゃないか」
「これからです。ならば途中は早送りします。とにかく被告人はこうして、事業だけに己の人生のすべてをかけ、43歳になったときには、押しも押されもせぬ世界的な大富豪になっていました。しかも独身のままで」
そう言ってから牛頭は、再びリモコンのスイッチを押した。次に映し出されたのは、しっかりと閉じた口もとに内面の強い意志を滲ませる初老の女性だ。身なりは質素だが、生来の品の良さとしっとりとした聡明さが、その身のこなしに溢れている。
「彼女の名前はベルタ・フォン・ズットナー。オーストリアでは今も、2ユーロ硬貨に肖像画が使われるほど有名な平和活動家です」
牛頭のその説明のあと、ベルタはレンズに向かい、静かにうなずいた。
「……そう、アルフレッドに初めて会ったのは、私が33歳のときでした。彼が女性秘書を募集する新聞広告を出したので、それに応募したのです。実は女性秘書とは名目で、婚期を逃したアルフレッドなりに考えた婚活だったことはすぐにわかりました。でも当時、私には結婚を誓った男性がいました。アルフレッドから求婚されて一時は彼との別離を決意したけれど、結局はその男性と一緒になりました」
牛頭はここで映像をフリーズにした。「被告はこの女性を知っているか?」と閻魔大王が訊ね、ノーベルは恥ずかしそうに小さくうなずいた。
「もちろん、知っています」
「ブヒヒヒン。要するにあなたは振られたわけだ」
「検察官は余計な質問はしないように」
「……確かに被告は失恋しましたが、ベルタとの付き合いはその後も続きました」と牛頭が静かに言った。
「そしてこの頃から、被告人は悩み始めます。このときだけではなく、生涯を通じて悩み続けました。なぜならダイナマイトは鉱山や工事現場などでも使われたけれど、最も大きなマーケットは、結局のところ戦争であるからです」
言い終わると同時に、牛頭は再びリモコンのスイッチを押した。
1888年、被告の実兄で会社の共同経営者だったルードヴィが病死した。ところがこの死亡を伝えるフランスの新聞が、ルードヴィとアルフレッドとを取り違え、「武器の売買で富を築いた〝死の商人〟アルフレッド・ノーベル氏死亡!」という見出しの記事を、大きく掲載した。
ここで画面は、再びベルタへのインタビューに戻る。
「……アルフレッドはこのとき、本当に気の毒なくらいに衝撃を受けていました。自分が世間的には戦争を食い物にする死の商人であると認知されているということがわかったからです。それまでも戦争と平和について、私たちはよく手紙で意見交換していました。でもそれまでは、どちらかといえば私の気を引くためのポーズだったと思います。でもこの時期からアルフレッドは、自分が獲得した財産で世界の平和に貢献ができないかと、本気で考え始めます」
上映はここで終わった。しかし廷内の明かりは点かない。再びボディコン衣装に着替えた牛頭が、お立ち台の上でスポットライトの明かりに浮かび上がる。
「……被告は確かに世間的には死の商人ではあるけれど、決してそれを望んではいなかった。むしろ自分が発明したダイナマイトによる人類への貢献を信じていました。だからこそ戦争でダイナマイトが使われたことへの衝撃は大きく、後にノーベル賞を設立しようと考えるに至るわけです。結果として被告の発明が、人類の戦争をより悲惨で大規模なものに拡大させたことは確かですが、これはいわば不可抗力であり、被告は自らの人生をかけて、必死にその贖罪に励んだともいえるわけです」
言い終えてから牛頭は、感極まったかのように泣きだした。お立ち台は涙と涎でびちょびちょだ。実のところは涙もろい閻魔大王も、じっとハンカチで目もとを押さえている。どうやら無罪確定かと思われたとき、じっと腕組みをしていた馬頭が、「私たちも証人のインタビュー映像を用意しました」と手を挙げた。